あさお日記

常日頃感じていること、好きなものや出来事を心に浮かぶままに綴っていきたいです(メインブログ)

懐かしい函館の街

こんにちは、しーどらです。


父は仕事の関係で転勤の多い人でした。
私達が高校生までは「娘の進学で…」
との言い訳が功を奏したのか?首都圏内での異動で許されていましたが、大学生ともなるとその言い訳が通用しなくなり、遠方に赴任(うちの場合娘2人を残して両親赴任)になりました。
母は娘2人よりも父の方が大事だったらしく、嬉々として父について行きました。
残された大学生の私と妹。自分の家に住んでいるのに、まるで下宿暮らしみたいでしたよ😅


私が大学生から社会人になりたての頃だったでしょうか、函館に4~5年赴任していました。

AC

 


夏休みには、両親の住む函館に向かいました。(両親の故郷である九州への帰省を含めて、南へ北へよく移動したものです😁)

最初に函館を訪れた時は所用で帰宅していた母と2人旅。
妹は合宿に参加していたので、後から友人を連れての合流です。
列車旅大好き母との新幹線~特急列車~青函連絡船の旅でした。

その当時は何とも思わなかったのですが、母は相当列車の旅が好きだったんだなぁと思います。
(飛行機の方が早いじゃないですか!)
九州に里帰りのブルートレインといい、函館を訪れるのに、新幹線、特急、青函連絡船を乗り継ぐ。
乗り鉄か!

 

早朝に東北新幹線に乗って、途中で特急に乗り換えて、最後は青森から青函連絡船で函館着だったように思います。

先日のこと母に電話をしました。

「もしもし、お母さんあたし。あのさー。昔お母さんと2人で列車と船で函館に行ったじゃない?」
「そーだったわね!」
「その時は寝台車じゃなかったけど、どこで乗り換えたとか覚えてる?何時に函館についたかとかさぁ」
「ひとつも覚えてないわ!やーねー」
私も全く覚えてないのですよ、二十歳過ぎての出来事なのに。
覚えてたことと言えば、特急の中で食べた駅弁が美味しかったことくらい😁
小学生の時のブルートレインの旅は今でも鮮明に思い出せるのに、二十歳を過ぎての北への旅はひとつも覚えていない、情けなくなります。

大人になって様々な事を経験すると、一つひとつへの思い入れが小さくなってしまうのでしょうか?

 


両親が会社に用意してもらったマンションは函館駅の近くにありました。
一階がコンビニになっていて、便利でした。お風呂上がりにアイス買いに行ったりして。
マンションの窓から交差点を見下ろすと、路面電車が入れ替わり立ち替わり通り過ぎて行きました。
北海道のマンションはサッシが二重になっていたなぁ…。寒さ対策ですかね。

 

東京には無い棒二森屋とか、丸井今井といった百貨店がありました。
住まいからすぐ近くに百貨店や観光地があって、便利でいい所でしたね。

 

父の会社の方がトラピスチヌ教会や、五稜郭立待岬などを案内して下さいました。
競馬場を訪れて走る馬の姿を生で見たのも初めてでした。
どこを訪れても本州の観光地とは違う気がして、何だかハイカラな街に思えました。


洋食が好きではない父でしたが、娘2人がわざわざ函館までやって来たことを喜んで五島軒というレストランに連れて行ってくれて食事をしたのも懐かしい想い出です。

素敵な夕飯になる筈でしたが
ローストビーフが出てきた時に
お肉が元々好きではない父が
「もっとよく焼いて欲しい」と言い出して顔から火が出るくらい恥ずかしい思いをしました。
おとーさん、こういう料理なのよ、
我が儘言わないでよ😭(二十歳の私)


こんなことならお父さんがお得意のお寿司屋さんの方が良かったよね…と妹と陰でこそこそ愚痴りましたw
今でこそ笑い話ですが、その時は相当恥ずかしかったなぁ。

函館を拠点に定山渓温泉大沼公園に行ったり、夜の函館山の夜景を堪能したり、居酒屋で初めてホッケを食べて美味しいなぁと思ってみたり(その頃あまり関東でホッケって頻繁に食卓に上るものではなかった気が…うちだけでしょうか)

 

随分昔の話になってしまいました。
40年も昔の夏休みの一コマです。
今でしたらスマホで何でも写真を撮って記録ができるのでしょうが、
実家に残るピンぼけの写真の他に記憶の中にぼんやりと残るのは、若かった両親と妹が家族だった頃の自分の気持ちです。

 

 


今日もおつきあい頂き、ありがとうございます(*^^*)