こんにちは、しーどらです。
勤労感謝の日、23日は実家に帰っておりました。
母が少しずつ断捨離を進めており
今回は母がお姑さん(私には父方の祖母)から貰い受けた着物の整理を一緒に行いました。
(祖母が残したものはかなり個性的な着物なので、母は一度も袖を通さず、しつけ糸が残ったまま40年間箪笥に眠っていたみたいです。私にも似合うとは思えないなぁ…😅)
着物を1枚1枚広げてはたたみ、広げてはたたみしているうちにあっという間に2時間が過ぎました。
顔を真正面から見るのではなく、着物をたたみながらというのが良かったのか、母が今まで一度も口にしたことの無かった話を聞くことになりました。
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何度かブログにも書いていますが、母は鹿児島の出身です。
正確に言うと、育った場所です。
祖父母も鹿児島の人で、明治30年代に生まれている筈です。
祖父は地主の息子、祖母は商家の娘で若い頃は比較的裕福な生活を送っていたようです。
祖父は学校を卒業後、県庁勤めの公務員になりました。
祖母のことは何人かの候補からの中から写真を選んで結婚したと聞いています。
ある時、志願したのか、転勤だったのか定かではありませんが、赴任先が植民地の朝鮮(今の韓国)になりました。
全羅南道の道庁に勤めていたそうです。
戦争前は豊かな暮らしを送ることが出来たらしく、女中さんが何人かいて家事をやってくれていたらしいです。
母はそんな中、年の離れた末っ子として朝鮮で生まれました。
ずっと年上の叔母達は日傘をさして、女中さんつきの通学、女学校へも送り迎えをしてもらっていたとかなり昔に聞いたことがあります。
植民地でしたので、完全に日本の社会です。九州ではない外地で育った母の話し言葉は私には難しい鹿児島弁ではなく、標準語です。まあ、東京に出てきて60年というのもありますね。
(叔母達は大きくなってからの引っ越しでしたので、亡くなるまで鹿児島の独特なイントネーションで話していました。ついの住みかも鹿児島です)
この辺までの話は子供の頃から何度か聞かされました。
私が10年位前にK-popに溺れていた頃w
「お母さん、ねぇ韓国行ってみない?生まれたに場所もう一回行ってみたいと思わない?」
と何度か誘った事があったのですが、うーん私はいいわ、といつもつれない返事でした。
今となってはもうあんまり興味もないのかなぁと思っていました。
結局韓国には行かないまま、いつしか私のk-popへの熱も冷めました。
何を発端にしたのかもわからないのですが、今回母が朝鮮から日本に引き揚げて来る時の話になりました。
初めて聞くことばかりでした。
光州が祖父の最後の勤務地。
終戦は8月でしたが、母達が日本に戻ってきたのは10月だったそうです。
私が、
「藤原ていさんの「流れる星は生きている」と、同じじゃない!大変だったんでしょう?」と聞くと
母達が住んでいた場所はそんなこともなく、辛い思いもせずに淡々と荷物をまとめて引っ越しのような帰国だったそうです。これはあくまでも小学生目線の話。
祖父母は危機迫るものを感じていたのではないかと思います。
母曰く
光州から釜山までは無蓋の列車で移動した。
停まる度に荷物を奪われて、釜山に着く頃には家財道具も洋服も全て無くなってしまった(この為、母は小さい頃の写真がありません)
釜山から博多の港に向かうのに、
政府が船を出してくれる筈もなく、
何家族かがお金を出しあって、人を雇い、ポンポン船を出してもらった。
途中台風に合い、一気に博多に辿りつくことが出来ずに対馬に立ち寄った。
民宿に空きはなく、台風が過ぎ去るまで、民家に2泊させて頂いた。
(食事も作って下さったたようです。
対馬の方々には本当に感謝してると言ってました)
対馬を出て博多に向かう途中、低い橋の下をくぐる事があって、橋の高さと船の先端がスレスレで通り抜けることが出来るのかとみなドキドキし、無事通ることが出来た後はバンザーイバンザーイと叫んだ。
その後、どんな経緯があったのかわからないがお金だけを持ち逃げされ、船の操縦士が逃げてしまった。
船頭を失った船が、海を漂っているところを、運良く日本の船が見つけてくれて、博多の港まで引っ張ってくれたので、無事日本に戻ってくることが出来た。
他にも台風の中同じような船がいたらしく、難破船もあったようで目の前を何名ものご遺体が流れて行くのを見たのを忘れられない。
終戦の年、母は小学2年生でした。
🌊
「おじいちゃん、おばぁちゃん大変だったね、子供大勢連れて…」
「あら、お婆ちゃんだけよ。お爺ちゃんはお役所で残務整理して、後から帰って来たんだからw」
お婆ちゃん!!!
あんなに華奢で小さかったお婆ちゃん(体重40キロありませんでした)、偉かった!
お婆ちゃんが諦めずに頑張ってくれたおかげで私はここにいるよぉ。
お爺ちゃん、戦争に負けたのに家族と離れて残務整理してたんかーい、と突っ込みたくなりましたが、それはおいておきます。
ほうほうの体で博多港に到着した後、すぐに汽車には乗れず、海の見える高台にあるお寺に何泊かしたそうです。
お寺の庭から浜辺が見えたらしいのですが、アメリカの進駐軍がジープで往き来している姿を目の当たりにして、何をされるわけでもないのに、ただ怖かったという気持ちを今でも覚えているそうです。
対馬で民家に泊めて頂いたり、博多のお寺に泊めて頂いたり、祖母はどうやってその算段をしたのでしょうか。心細かったのではなかったか。
私には想像すらできません。
博多からは超満員の汽車で鹿児島に辿り着いたとの事です。
日本に戻ると祖父に公務員の仕事はなく、祖父母は生まれて初めて、農作業をすることになったそうです。(家屋敷、田畑があっただけ、ましとも言えるでしょう)
貨幣価値も変わり、折角貯めた紙幣はただの紙切れに。
祖父母、父母の世代は多かれ少なかれみな戦後の苦労をしていると想像します。
今になって話してくれたのは、母の中で、何かが吹っ切れたのでしょうか。
敗戦から80年が経ちます。
母が語ってくれなければ、私は母方の家族の小さな歴史を一生知ることは無かったでしょう。
明るかった叔母達、お酒に強くて揃って料理上手でした。
夏休みに帰省した際、東京へ戻る母と私達姉妹を見送りに来る叔母達は、西鹿児島の駅でいつも涙目でした。
「今生のお別れでもないのに」
とあの頃の私は思っていましたが、今ならわかるような気がします。
「お母さん、折角だから本書いたらどうかしら!ボケ防止にもなるし」
「やだわぁ。面倒くさい😄」
話を聞き終わる頃には着物の片付けも終わりました。
今日は長くなりました。ブログに書き留めておくことで、私も忘れないでおこうと思います。
おつきあい頂き、ありがとうございます(*^^*)