こんにちは、しーどらです。
9月は一冊の本と格闘しておりました。
「百年の孤独」です。
発売以来ずっと文庫版化がかなわなかったノーベル賞作家の代表作(文庫版化されたら世界が滅びると言われた!大袈裟だなぁ)が、今年初めて文庫本になったのです。
本屋さんでも目立つ所に積んでありました。
元々日本の文学、それも女性が書いたエッセイや軽いタッチの小説ばかり読んでいる私が、翻訳もの、読んだことのない南米コロンビアの男性の作家の本を最後まで読み通すことができるのだろうか。
今年のはじめに「失われた時を求めて」に挑戦してあえなく撃沈…。
毎晩寝しなに頁をめくるのですが、
睡眠導入剤よりよく眠れる気がするこの本は、(実際導入剤を飲んだことはないけど…)布団に押し潰されたのか20頁くらいの処に挟んである栞が変な風に折れ曲がって、本棚に放り込まれたままです。全十何巻の一冊目でこの有り様。
こんな私がこともあろうか、600頁に及ぶ大作を手に取ってしまったんです。
今回読もうという気にさせてくれたのが、友田とんさんの
「百年の孤独を代わりに読む」という本の存在でした。
「百年の孤独」の隣にこちらも積まれていました。今回の読書では
自転車の補助輪あるいは
マラソンランナーのペースメーカー
のようなものでした。
そもそも人の代わりに本を読むという発想がよくわかりません。
他人の思考を共有する為にはその人の本を読まなくてはならず、それなら原作本を読むのとどう違うのか?
はてなマークが頭の上でいくつも浮かびました。
とりあえず、読んでみよう。
本を開き、読み始めました。
翻訳者の方の訳が素晴らしいのか、
日本語訳も不自然なところがなく、
無理なく読み進められます。
どうってことないんじゃない…
ふんふん…
うーん?
えっとー?
混乱してきた😆
ストーリーは、南米版大河ドラマと
私には思えました。特に難解な思考が書かれている訳ではありません。
読んでいて混乱を招いた原因は
時間軸のズレ
登場人物の名前
この2つにあるように思いました。
※前の章で亡くなった筈の彼、彼女が突然ストーリーに出現しては語りだし、動き出す。
※初代から玄孫まで繰り返される同じ名前。
例えが今一つですが、
初代太郎左衛門と三代太郎左衛門(実際には五代に渡る)がミドルネームがあったり、なかったりの状態で
時代を超えて右往左往するようなイメージです。
本の最初にご親切に表記された一族の家系図を何度見返したことか!
そしてこの混乱に陥ると読み進む速度が一気に失速して、ストーリーの面白さが半減してしまうのです。
ここで代わり読んでくれる友田さんの登場です。
一旦「百年の孤独」を机に伏せて、おもむろに友田さんの「代わりに読む」を開くのです。
友田さんは百年の孤独を解説するのではなくその話の展開を何故か
・ドリフのコント
・小泉今日子が若い頃出ていたドラマ
・植木等の無責任男
・バックトゥザフューチャー
などの展開と照らし合わせてソフトな比較文化研究wで解説してくれます。
こんがらがった頭に寄り添ってくれ、糸をほぐすように読者を再び「百年の孤独」へと誘ってくれます。
ここで、クールダウンしてホッとした私は今度は友田さんの本に栞を挟んで、おもむろに
再び「百年の孤独」への読書に戻っていくのでした!
長くなりそうなので改めて~
今日もおつきあい頂きありがとうございます(*^^*)